私はこう思う
単身のあなたへ勇気と確信と希望に満ちた青春期を。
青春時代は、誰しも思い出多いものではないでしょうか?
いや、思い出のないようでは青春期を生きたとは決していえまい。
私もまた例外ではない。
私には深い反省がある。
それは、十代、二十代の時に、もっともっと基本的は勉強をしておきたかった。、
また身体を丈夫に、鍛えておけばよかったということである。
自分でも青春時代の大切であることは自覚して、多少読んだつもりであった。
だが、今となっては、あの十倍も二十倍も、やればよかったと悔やまれてならない。
今、自分の青春時代を振り返り、いかに青春期が重要であるかを痛感している。
所詮、人間の一生こそは、
青春時代をどのように過ごしたかによって決定されるといっても過言ではない。
私は、青年の価値は、勇気と確信と希望であるということを実感しています。
勇気ある実践は、あらゆるものを創造していく根源である。
そして、その勇気を支えていくものは確信であるとは言えないでしょうか?
確信には、逡巡はない。迷いもない。
しかして、その確信は、自らの使命と、責任を全うしきる実践のなかから生まれるものです。
さらに、人生で最も優れた人とは、
青春期にもった理想、青春時代に築いた夢をば、一生涯貫き通してゆける人です。
美しい心、美しい姿
低い所へ物が集まってくるというのは、この世の法則であり真実です。 美しい低い心に幸せが集まってくるのです。 それでは、どうすれば心を低くすることができるのでしょうか? たとえば私は、人にお話しすることはできます。 でも、そのときに着る背広1枚も作ることはできません。 腕時計も作ることができません。もちろん、住んでる家を建築するなどと いうことは到底できませんし、毎日頂く食べ物さえ作ることができません。 家族や知人はもちろんのこと、名前も顔も知らないたくさんの人々の お世話になっているからこそ、今こうして暮らしていられるのだなど、 しみじみ感じます。 一人の人間で、いったい何ができるのでしょうか? このことを考えていただきたいのです。 そうすれば、自分一人では何もできない。自分が足りないことに気がつきます。 そして、自分の足りなさが分かれば分かるほど、心が低くなるのです。 自分の心が低くなれば、当然人が上になります。 上になりますから尊敬することができます。 頭を下げて頼むことができるのです。人間にとって一番美しい姿は、低い心で 頭を下げ、両手を合わせた合掌の姿です。これほど美しい姿はありません。
二十代・三十代のあなたへ
二十代の十年。三十代の十年を最も大切に過ごしていただきたい。
中高年になった時、過ぎ去った十年ごとの速さにはきっと驚くのではないでしょうか?
生涯勉強を、と言うことはたやすい。
経済大国日本となって、余暇も増えた。
趣味も多様化している。
しかし、時間があれば、学校に通えば、
それだけで自分が豊かになるかというとそうではない。
その人の心の中に「向上の心」が生き生きと躍動しているかどうか、それが鍵であろう。
仕事の場でも家庭でも、日常の瑣事の中からでも、得がたい勉強をしていくことができる。
五分の間に新聞を読む。本をひもとく、ニュースに耳を傾ける。
人との出会いからも必ず何かをつかみとっていく。
忙しいそうに見えても、その人は、「多忙」そのものを「学び」に変えていける人です。
横着な心は停滞の第一歩ではないでしょうか?
何に対しても新鮮な感動と興味を抱く、
「向上の心の泉」を満々とたたえゆく人生でありたいものである。
春になれば花が咲き、冬になれば雪が降るように、
青春時代に異性に憧れ、好意をもち胸を熱くするのは自然なことです。
人生一つの段階です。
お互いが、
キラキラした夜明けの新しい太陽が昇るような、新しい時代に入るようなものです。
もとより、恋愛の悩みといっても、十人十色、性格も違うし環境も状況も違う。
「こうすれば必ず解決できる」というような、誰にでも当てはまる法則はないでしょう。
また、人を好きになるのも、「きれいだな」と思うのも自由
お付き合いするのも自分の意思であり、
本来、人がとやかく言うものではないかもしれない。
ただ、人生の先輩として、皆さんに伝えておきたいことは、
「自分自身を大きく育てていく」という根本軌道を忘れてはいけないということです。
勉強もクラブ活動も「強い自分」という人生の土台をつくるためにある。
性格の悩み、友人関係の悩みも「強い自分」を築く肥料となるのではないでしょうか?
恋愛も同じです。
自分が大きく成長し、生き生きとして力を出していくようでなければなりません。
それが大前提です。
しかし、「恋は盲目」と言われるように、
ともすれば、自分を冷静に見るゆとりがなくなってしまうのも恋愛の現実です。
親に心配をかけたり、
非行的になったり、勉強をおろそかにするようでは、おたがいが「魔」(邪魔)になっている。
おたがいが、傷つけあうことになっては不幸です。
大事なことは「あの人がいるから、もっと勉強しょう」なのか。
それとも「勉強よりも、あの人」なのか。
「あの人がいるから、もっとクラブ活動しょう」
「あの人がいるから、もっと友達や親を大切にしょう」
「あの人がいるから、未来の目標に向かって、もっと頑張ろう」なのか。
それとも「クラブ活動よりも、あの人」
「友だちや親よりもあの人」「未来の目標よりもあの人」なのか。
今、自分たちは何をすべきか、その目的を忘れての付き合いは邪道です。
目的を達成させようという励まし、希望をもちあっていくことが大切です。
恋愛は、感動し元気になり、希望を生み、生きぬく根源とならなくてはいけません。
相手がどうであろうと自分の思いを見失わず、その愛情を「生きる希望」に変えて
恋愛は「生きるバネに」生きる強さのバネにならなければいけないと私は思う。
自分だからこそできる価値創造
一人一人が「かけがえのないもの」に思いをはせ、それにいかにして守り抜き
未来につなげていけるかについて、知恵を出し合い、行動を重ねる中で
具体的な輪郭を帯びて浮かび上がってくるものではないでしょうか?
であればこそ
今この場にいる自分でなければ発することができない言動や行動が生み出す
「価値創造」の意義が、いやまして輝いてくると思うのです。
たとえ「一人」でも直接会って話すことができる関係を持てれば
そこから見えてくる「風景」もおのずと変わってくるのではないでしょうか?
その「一人」と胸襟を開いて対話を重ねる中で、
意識から抜け落ちていたものが目に映るようになり、自分にとっての
世界の姿がより人間的な輝きを放つようになっていくのではないでしょうか?
ステレオタイプを打ち破るための鍵
人間はともすれば、自分と近しい関係にある人々の思いは理解できても、互いの間に
地理的な隔たりや文化的な隔たりがあると、心の中で距離が生じてしまう傾向があります。
しかしそれは、
グローバル化が進むにつれて解消に向かうどころか、情報化社会の負の影響も相まって
レッテル貼りや偏見などが、むしろ増幅するような危険性さえみられます。
その結果、
同じ街に暮らす自分と異なる人々とはできるだけ関わり合いをもたないようにしたり
ステレオタイプ的な見方が先立って差別意識を拭いきれなかったりするなど
相手の姿を「ありのままの人間」としてみることのできる力が
社会で弱まってきている面があるのではないかと思われます。
私は、こうした状況を打開する道は、迂遠のようでも一対一の対話を通し
自分が限りなく大切にしてきたものが、他の人には邪魔としか映らない
互いの人生の物語に耳を傾け合うことから始まるのではないかと思います。
「成長家族」「創造家族」に
私は「成長家族」「創造家族」という言葉が大好きです。
家庭は、人生の基本となる「安心」と「希望」の拠点であり、
「幸福」と「平和」の基地にほかならない。
日々の生命と活力の蘇生の場であり
誰かが、思い込みに固まってしまっていた「まなざし」を揺り動かしてあげる。
そうすれば、本人も解き放たれていけるし、対立していた関係も変化していきます。
悲しみが、いつしか希望へと転換されていくこともあります。
家族とは、前進と充実を生み出す創造の絆であり和楽と成長の城です。
仮に離れて一人暮らをしても、家族は家族です。
深刻な孤立や無縁が憂慮され、心の砂漠が広がる少子社会にあって温かな思いやりを
「お読みくださっている多くの人のためにどれだけ尽くせるか」それが私達のテーマであり
誰もが情報の発信者となる現代にあって、いかに正義と真実を伝えていくか
いかに多くの「一人暮らし」の人に勇気と希望を送っていくか。そんな思いを考えています。
怒りの感情と上手く付き合いませんか?(アンガーマネージメント)
人間の悩みは、すべて人間関係にあります。
心理学者、アルフレッド・アンドラーはこう断言しました。
それほど人づきあいは難しい面をもっています。
人それぞれ心が違いますから、対立や争いごとの種もつきません。
そんな時は、
(1) 6秒間待つ。感情のピークは最初の6秒。
(2)自分を怒らせた正体を知る。
自分を怒らせた正体(原因)は人や出来事でなく自分の中にある"べき"と言うことば。
(3)"べき"の境界線を広げる。
自分と少し違うが許しても・・・中間(許容ゾ―ン)を作り広げる
どっちが真っ直ぐ
お互いの「真っ直ぐ」を主張し合う、
そしてもめごとになり喧嘩になり人間関係に大きな溝が生まれる。
では、どうしたらいいのでしょう。
大切なのは、自分の「真っ直ぐ」をいったん横の置いて
もしかしたら、
その人なりの「真っ直ぐ」があるのでは、と考えてみることで
心の余裕が生まれるのではないでしょうか?