幼少の頃に育まれた思い出の宝庫であった昭和30年代のことです。
風情ある京都の街には石畳の小道が広がり、神社や寺院が点在しています。
四季折々の美しい自然が私(新川重和)の遊び場であり、冒険の舞台となりました。
当時の日常がぎゅっと詰まった、懐かしさと魅力が溢れる日々でした。
東福寺近くの京都第一赤十字病院で『おぎゃ、おぎゃ』と産声を!
秋になると紅葉が綺麗と言われている東福寺近くの京都第一赤十字病院です。
どちらかと言うと体の弱かったと言われていた母親の新川藤子から、1957年2月23日に新川重男の長男として無事に産声をあげました。
そして、重和という名前をつけてもらえました。
京都の四条中新道という地で、言葉に敏感で、言葉一つ一つに一喜一憂していました。
自分の気持ちを隠し、人に合わせ、自分の言いたいことも何一つ言えない環境が辛かったという思い出が残っています。
外で元気よく遊ぶ子供というよりも、家の中でプラモデルをコツコツと組み立てていたようにも記憶しています。
切手収集や一眼レフのカメラをバラバラにして、べニア板にビニールテープで張り付けるという奇妙な行動をして、父親によく怒鳴られていました。
保育園や幼稚園へ通うのが大の苦手な子供だったようです。
たぶん行きは母親について来て貰えていたと思いますが、しばらくすると勝手に家に帰っていたかもです。
物心がついたころには、幸いにも4本脚のどっしりした白黒テレビが自宅にありました。
ひょこりひようたん島、鉄腕アトム、鉄人28号、スーパージェッターなどの漫画や、プロレスは力道山などを観ていました。
毎日のラジオ体操が待ち遠しい子供でした。
朝のラジオ体操に一回出たら、大正3年創業の精密板金の会社に勤めていた父親から100円札1枚の小遣いをもらうのが毎日待ち遠しいかったです。
台風の影響で屋根の上にハシゴで登り避難
伊勢湾台風?第二室戸台風?どちらの台風のときだったかは記憶は定かではありません。
洪水になるかも知れないと思っていました。(汗)
母方の自宅裏だったかと記憶していますがアパート2階の屋根の上までハシゴを掛けて、避難のため登っていました。
しばらく屋根の上で避難をしてじっと座っていました。
しばらくすると1階の床上まで水が流れてきて浸水が始まっていました。
京都四条中新道の暮らし
当時、母方の祖父や祖母は四条中新道の自宅で反物の洗い張りの仕事をしていたのではなかったかと記憶しています。
冬の京都は雪が降ってくると、ボタボタ雪で積もりやすくなります。外では雪ダルマを作って遊びました。
冬の家の中では掘りコタツに入り、火鉢のある昔ながらの部屋で過ごしていました。
京都新聞の記事を大学ノートに丸写しすることもありました。
その後、京都の日展で毛筆習字で入選する気の弱い子供でした。
父方の祖父は毛筆の習字が得意だったようで、その影響なのかわかりませんでしたが私は、文字を書くことが好きだったようです。
遊びと言えば主に、外ではビー玉やめんこ、竹馬乗りです。
お風呂の中では、湯ぶねの中で弟と水鉄砲遊びなどをしていました。
正月にはどこの店も休んでいたため、本当にシ一ンと静かでした。
電柱などがある街中を避け、川沿いや堤防で、元気よく凧揚げなどをして遊んでいました。
おやつは当たり付きのくろんぼや1円のストローの中にゼリーを目指し、片手に10円?を小っちゃな手に握りしめ近所の駄菓子屋さんへ行っていました。
本物のロバのパン屋さんが来てました。
本物のロバが引いているパン屋さんの音楽が聞こえてくると、とても楽しみでした。
「ロバのおじさん チンカラリン チンカラリンロン やってくるジャムパン ロールパンできたて、 やきたて いかがですチョコレートパンも アンパンもなんでもあります …」
真冬、積もりやすい京都のボタボタ雪が降っていても、スリッパを履いて家の前に出かけて行くのが楽しみでした。
国道1号線の横断歩道を渡り一人で小学校へ毎日通学をしていた6年間
父親が勤めていた会社は、京都市伏見区にありました。
敷地内にあった5階建て社宅1階2DKに住みながら、6年間小学校へ通学していました。
それぞれの学年がひとクラスしかない全校生徒200人くらいの小さな学校でした。
校舎は木造2階建て建物、生徒や教師の掃除で行き届いて黒光りしていました。
生徒が廊下を走ると、たまには床がギシギシしていたりしていた状態でした。
教室の柱には教壇に立つ教師や生徒が座る机に向かい扇風機が設置されておりました。
夏になると扇風機の首が振りながら羽根が回り、教壇に立つ教師や生徒が座る机に向かい涼しい風を届けていました。
小学校時代、教室の机です。↓↓
冬になると、黒板に書かれていた日直2人が早朝にグランドの片隅にある石炭置き場から一輪車で石炭を積んで、教室の石炭ストーブまで運びました。
他の生徒が来る前に、火を熾して水を入れたやかんを置き、教室を温めておきます。
また、先生が来る前までに黒板をぞうきんで綺麗に拭くこともしました。
授業中、態度の悪い生徒を見つけると、教壇に立つ教師はその生徒に向かってチョークを投げたりしました。
また、生徒が座っている横を通りながら、出席簿の角で頭を叩かれることもありました。
さらに、廊下に水の入ったバケツを持って立たされることもありました。
学校が休みの時はグラウンドの真ん中に赤い旗が置いてあり風が吹くと靡いていた記憶が残っています。
通知表に「周りに気を使っている」と書かれていたほど、子どものころからずっと「気にしい」です。
人の気持ちが見えてしまったら’、それを無視できず自分の気持ちのまま突っ走るタイプではなかったです。
社宅裏のアルミ作りのドアを開けると、川を挟んで田んぼのあぜ道が左右に通っていました。
田んぼでは季節になると蓮華が咲き、夏が近づくころにはカエルが、ゲゴゲゴと喧(やかま)しいくらい鳴いていました。
理科の宿題だったと思いますが、カエルを捕獲しカエルの解剖をしたりしていました。
あぜ道を自転車で走っていると、前方から虫の大群が顔の前を目がけてきたりして幾度となく目をつむったりしていました。
友達たちと昆虫採集やトンボとりなどして、楽しく走り回っていたりしていました。
社宅の裏からの遠くには、何の障害物もなく、伏見桃山城がはっきり見えていました。
たまには、伏見桃山城の遊園地へ家族で遊びに行ったりしていました。
正月には、凧の2本の足には新聞紙をのりで貼って鴨川の堤防で凧揚げなどをしたりして遊んでいました。
初恋時代
小学校低学年のころだったと思っていますが、好きな同級生の女の子がいました。
親同士も仲が悪かった状況もあって勇気をもって『好きだ』とも言えない気の弱い片思いの新川重和でした(笑)。
今でも懐かしい思い出が時折蘇ってきたりしています。
あれから随分経ちますが、ご結婚もされても毎年~2024年の年賀状は今でも来ています(感謝です。)・・・・(つづく)
国道1号線の横断歩道でバイクと事故に遭いました
小学校低学年のころ、始業前に忘れ物に気づきました。慌てて自宅まで取りに帰ろうと思い、いつも通りの通学路を通りました。
国道1号線の横断歩道の信号が青色になったのですぐに渡り始めましたが、南から来たバイクに気づかず事故に遭いました。
幸いにも大きな事故にならずに数日間安静にして回復しました。
その時に今後は、横断歩道を渡る際信号が青になっても左右を見て安全確認の上渡ろうと思いました。
日用品や食料品の買い物
主に日用品や食料品は市バスや自転車(約20分くらい)に乗って、育ての母親の実家もあった伏見区大手筋のアーケード街まで日常は買い物に行っていました。
娯楽・遊興
休日などはよく家族で京都の河原町や京都駅近くの丸物百貨店、動物園まで遊びに市バスやタクシーで連れて行ってもらいました。
当時のタクシー初乗り運賃は60円もしくは、90円でした。夏場などはタクシーのドアのところにクーラー車とシールが貼られていました。
京都河原町へは祇園や円山公園、八坂神社などが有名で食事は焼肉と言えば天壇へよく連れて行ってもらっていました。
丸物百貨店に連れて行ってもらった時のエピソードと言えば、屋上の遊園地で遊んでいました。
お昼ごろになれば、両親に大食堂で食券を買ってもらって食事をしたりしていました。
階段の途中にガラス張りの中に値札のついていないおもちゃが展示されていました。
よく父親に「展示されているおもちゃに指を指し」あれ買ってと、座り込んで、よくだだをこねていました。
常時社宅裏のリンゴ木箱2箱に、山盛りのおもちゃがあったように記憶が鮮明に残っています。
何回も父親に「だだこねる」のでそのうち言われました。
な~あ、重和
丸物ごとこうたると(笑)のちにそんなことは実現するはずもなく丸物百貨店は閉店してしまいました。
動物園に連れて行ってもらった時のエピソードと言えば、事前に角砂糖を買っておき、それを持っていき動物にあげたときのことです。
嬉しそうに動物が寄ってきて楽しいかった思い出が残っています。
四国でクルージング
小学生のころ、四国に連れていってもらいモーターボートに載せてもらいクルージングの体験をし、楽しかった記憶が薄っすら残っています。
(つづく)